



鹿児島の壺造り黒酢 発祥の地 霧島市福山町
鹿児島市より車で約50分、約40km北東へ走った錦江湾の一番奥。
ここ霧島市福山町には、壺の並ぶ風景が広がります。
福山の自然と醸造技師に見守られながら、この壺ひとつひとつで黒酢が育まれています。
江戸時代(1800年頃)に始まった壺を使った酢造り。
それは、福山の環境が酢造りに適していたからです。
福山は、三方を丘に囲まれ、南方は海。 そのため冬は暖かくて霜が降りることは稀で、夏も海からの風で比較的涼しく、年間を通して温暖な気候です。
この一帯は約25,000年前にできた姶良カルデラ壁で、中腹には豊富な地下水が蓄えられています。
薩摩藩時代この水は、「廻(めぐり)の水」と呼ばれ、藩内随一の名水として折り紙つきのものでした。
また、この時代福山は交通の要衝で、福山港は米の集散地。 薩摩藩への上納米は、大隅半島から全てこの地に集積され、船で鹿児島方面へ運ばれていました。 そして、藩内では「薩摩焼」として知られる窯元があり、黒酢のシンボルともいえる「壺」が身近にありました。
発酵に適した気候風土を持ち合わせ、酢造りに必要な「地下水」「米」「壺」が揃った場所が、「福山」だったのです。
福山の自然と人が造る黒酢
福山には、酢づくりに必要な環境は揃っていましたが、それだけでは黒酢は生まれませんでした。
そこには人の手が必要だったのです。 黒酢は原料の蒸し米と米麹と地下水を壺に入れた後、様々な微生物が関わる複雑な発酵過程を通じて出来上がります。
それぞれの微生物が活動するためには、それぞれの適切な環境が必要です。
先人たちは、微生物にとって適切な環境をつくるために、試行錯誤しながら壺造り製法を築き上げたのです。
「坂元のくろず」は、今でも当時と全く変わらない江戸時代からの伝統製法で、蒸し米と米麹と地下水のみを仕込み、太陽エネルギーの力を借りて、1年以上発酵熟成させて造ります。
醸造技師たちはまるでわが子を育てるように愛情を注ぎながら、長い時間をかけて大切に黒酢を育てます。
そうしてようやくまろやかでコクのある黒酢が生まれるのです。
ひたむきに守り続けてきた伝統製法
江戸時代後期に始まった黒酢造りですが、戦後の米不足や合成酢の広まりにより福山各所に立ち並んでいた24軒の醸造所はほとんど廃業してしまいました。
そんな中、坂元醸造の現会長の父、先代の坂元海蔵は黒酢造りの技術が失われることを恐れて、原料をサツマイモに代えて黒酢造りを続けました。
坂元醸造の持つ技術は江戸時代から絶えることなく、今も守り続けられています。
時代の荒波を乗り越え、終戦前には約700本だった壺は、今では52,000本までに増えています。
黒酢に秘められた力
黒酢の研究を始めてから40年あまり。
坂元醸造は「坂元のくろず」が持つ機能性について、さまざまな大学や研究機関と共同研究を行い、その驚くべきチカラを明らかにしてきました。
近年、黒酢は調味料としてだけでなく、健康食品としても認知されるようになりました。
坂元醸造ではこれからも黒酢の研究を続けてまいります。